2012-05-02

脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(15)江戸期の経済学者その2(安藤昌益)

前回は、江戸末期の自然災害と都市の市場経済に痛めつけられ、疲弊した農村・藩財政を立て直していった、二宮尊徳をみてみました。立て直しの方策/報徳仕法(至誠・勤労・分度・推譲)の教えにより、明治期の農業・農村振興へと繋げた経済思想・実践思想を確認しました。

脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(14)江戸期の経済理論家その1(二宮尊徳)

今回は、農村共同体への回帰を理想とし、時の特権階級(武士、学者、僧侶・神官)と支配思想(仏教、儒教、神道)を徹底的に批判し、東北の片隅で、自然の世を理論化した安藤昌益を紹介します。

1.謎にみちた安藤昌益の略歴
2.支配階層、支配思想への徹底的批判
3.直耕こそ理想、原始生産体(農業生産体)への回帰思想

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1.謎にみちた安藤昌益の略歴

安藤昌益の主著である「自然真営道」は、明治32年(1899年)に時の第一高等学校(戦後の東京大学教養学部・駒場)校長である狩野享吉氏によって発見された。『自然真営道』校本の刊行は、江戸中期の1753年(宝暦3年)であるから、150年間の空白期間がある。そのためもあって、安藤昌益の略歴は、不明な点が多い。

そこで、推測を含めて略歴を記述している『安藤昌益の世界』(石渡博明著、2007年草思社発行)から、安藤昌益の略歴を追ってみます。

◇誕生の地・大館

安藤昌益は、元禄16年(1703年)羽州秋田比内二井田村(現在の秋田県大館市二井田贄の里)の草分け百姓の安藤孫左衛門家のおそらく次男として生まれた。

  
   大館盆地

大館は、ブナの原生林・白神山地を北に、東を奥羽山脈、西を出羽山地に囲まれた、米代川中流の盆地である。安藤家の先祖を遡ると、平安時代の中期に入植し、稲作を開始した家系でもある。
安藤昌益の幼名は分っていないが、少年時代はよく遊び、よく学ぶ少年だったと推察されている。当時の大館盆地は、京都の伊藤仁斎・東涯親子の堀川学派とのつながりが強く、農家の出であっても、次男なので、昌益少年は15歳の元服前後に京都へ上がったと思われる。

◇京都での禅林修行、仏門離脱、医学修行

京都へ上がった少年昌益は、仏門おそらく禅林(禅宗の寺)に身を寄せ、悟りを開くべく修業に励んだ。ところが、自らの解脱の体験を「気のうつろいにして・・・・・いまだ愚の病」、錯覚であったと否定したばかりか、「禅法の悟りといえることは、はなはだ私の妄失」と捉え返すことで、仏門における修行そのものを否定してしまった。

また、表は女人禁制だが、裏に回れば稚児や若衆の男色がはびこり、仏法を説きながら、お布施を強要し、寄生生活を正当化する逆立ちした教説に背を向けたのである。

仏門での経験にあらわれた倒錯性、仏教の教えに見られる虚妄性の数々が、昌益に仏門からの離脱を促したものと思われる。

仏門を去った青年昌益は新たな人生を医学の道に求め、どのような伝手によってかは不明ながら、味岡三伯の門を叩いた。

味岡三伯は、三代にわたって、「医学講説」とか「医学講説人」として、医学の基礎理論の講義に秀でた医家であった。講義は、漢方医学の基礎理論である運気論を講じていた。

運気論とはその名の通り、この宇宙には目に見えない「気」が充満して「運」行しており、その気の離合集散・消長によって万物が生成され、生成した万物の内部にも気が運行し、そのことによって森羅万象が営(いとな)まわれるとする論で、一般には「陰陽五行論」として知られている。
医学を学んでいた昌益は、享保20年(1735年)に子息をもうけているので、その何年か前に、京都で結婚したものと見られる。

◇思想展開の場・八戸

壮年期にさしかかった昌益は、享保元年(1744年)、奥州南部八戸藩の城下町に住むこととなる。今でも八戸市の中心街である十三日町の一画、八戸城下町の一等地に、借家ではなく自身の持ち家住まいとして居を構え、町医者として暮らすようになる。昌益41歳の時である。

昌益は、八戸で講和をしていたようで、その講和が武士や文化人から称賛されている。

天聖寺住職・守西上人の「詩文聞書記」によれば、天聖寺において数日にわたって講演を行ない、人々に感銘を与えたという。「道の広きこと天外にも、なお聞えん。徳の深きことを顧みれば地徳も、なお浅し。道徳無為にして衆人に勧め、実道に入らしむること、古聖にも秀でたらん者なり」と。
つまり、教養豊かで人徳が高く、怠惰に流れやすい人々を無意識のうちに矯正させる非常に影響力の大きい人物で、古の聖人をも凌ぐほどであると、ほとんど手放しといってもよいほどの高い評価である。

こうした評価に対して、社会の底辺で誠実に生きる人々への共感を、十種類もの魚の名を折り込んだ漢歌風のざれ歌や和歌に詠み込んでいる。
「人のあか ほどにわが身の 恥ずかしく 風呂鍬(ガ)の火たき 見るにつけても」(この私は皆に先生などと持ち上げられてはいるが、実は人の垢(アカ)にも比すべき存在で、社会の寄生虫にすぎないのではないか。鍬(クワ)は日々、農民の耕作に役立ってだけでなく、使い古された後も、柄は風呂の火焚きに使われ、最後まで人々の役に立っているというのに)といったものである。

安藤昌益の最初の刊本は、宝暦三年(1753年)の「自然真営道」三巻である。伝統的な陰陽・五行論に基づく医学理論や自然認識、自然理解が誤りであることを訴え、聖人批判を行なった書である。昌益50歳である。

この出版に際し、当時の幕府・朝廷が合作する『暦』に対して、「今の暦は、国々・耕農・自然の気行に相合う(あいかなう)こと無し」と記述しているため、削除・変更を余儀なくされた。時の権力と学者による出版弾圧を受けたのである。

こうして、出版統制という形で封建社会の抑圧を肌で実感した昌益は、伝統教学の虚妄性、封建社会の矛盾への批判を、さらに徹底させてゆくことになる。それが『統道真伝』であり、『学問統括』である。

◇終焉の地・大館

宝暦六年(1756年)、兄が亡くなり、二井田の安藤家を継ぐべく大館に活動の場を移していく。安藤昌益53歳である。

安藤家は、養子をとり家業を任せた。

そして、自身は、医師として村人の治療に当たり、村人の話を聞いたり相談に乗ったりするなかで、自然真営道の神髄を、野良で、囲炉裏端で、村人に説いてまわった。
「自然界に耳を傾け、自然界の理法にしたがって生き、社会を支えている農民こそがこの社会の主人公であり、なにも神仏を崇めたり神仏にすがる必要はないのだ」と。

安藤昌益は、宝暦12年(1762年)に病死する。享年60歳である。

二井田の村人は昌益を慕っていたので、「守農太神確龍堂良中先生」の石柱を建立します。また、三回忌には、酒と魚で昌益をしのぶ宴会を行なった。

生前の昌益に批判されていた神社の神主と寺の僧侶は、「勝手に神にするのはけしからん」、「精進料理を守らない不信心もの」として、石柱の撤去を命じ、関係者の追放を画策します。
それに対して、村人は石柱の撤去には応じますが、その「碑文」は紙で密かに残しています。また、関係者の村からの追放は実質を行なわれませんでした。

安藤昌益は、その思想原理である『農村共同体』の中に、没していったのです。

    
    『安藤昌益の世界』と『安藤昌益全集二 自然真営道』

2.支配階層、支配思想への徹底的批判

安藤昌益の支配階層、支配思想への批判は、「統道真論」でより先鋭に展開される。それを、現代語訳で書かれている、『日本の名著19 安藤昌益』(中央公論社 昭和46年刊)から紹介します。

◇儒教批判

<五常は皆失(あやま)り>『仁の誤り』

いわゆる五常とは、仁・義・礼・智・信である。聖人は仁をもって下民にめぐむといわれる。私の誤りのはなはだしいものであって、笑うべきことである。聖人は耕さずに衆人の直耕、天の生業たる穀物を貪食し、口説をもって直耕という天職にしたがう天子たる庶民をたぶらかし、自然天下を盗んで上に立ち、王と号した。
だから自分の手によっては一粒も一銭も出すことなく、自分の所有物というものを何一つ持たぬ者が聖人なのである。それなのに、いったい何を施して民にめぐむことができるというのだろうか。
だから笑うべきなのである。民の直耕を貪り奪った上でこれを民に施し、これをもって仁と称するのであるから、たいへんな了見ちがいといわなくてはならない。

また、税を少なくすれば民に施すことになるから、これをもって民にめぐんでいるのだと称するのは、逆賊の言い草である。
乞食は人々の施しをするのを持ってこれを貪り食うけれども、施し物がないときには餓死はしても盗みをはたらいたりはしない。
聖人は庶民の直耕を貪り奪ったり、税が得られなかったりすると、すぐ兵乱を起こしてこれを攻め取る。命令に背く者があると罪もない庶民を殺す。いったいこれが仁徳の政であるなどといえようか。

儒教の「仁」は、何も生産しない(直耕しない)聖人が、自然の恵みを引き出す農民・農村に寄生し、奪うためのたぶらかしの理屈であると強く批判しています。

◇仏教・釈迦批判

『釈迦の説法は穀物の大切さを教えない』
この穀物は、自然宇宙が一瞬の休息も間断もなく連回し、施行して、妙気をつくし、中土に感合したところに生じたものである。だから、自然の無始無終の宇宙の連回する気行は、すなわち自然の直耕なのである。・・・・直接に穀物を耕作する人間は真人である。耕さずに貪食する者は、道を盗む大罪人である。
天下の何万人という人間はただ一つの直耕人間である。だから自然の人間は、上もなく下もなく、王もなく民もなく、仏もなく迷いもなく、すべて二別というものがない。だから、自然なのである。
悉達(釈迦)はこのことを知っていたので、王は自然にあることのない道の盗人であるとして、王位を捨て、出家となった。
ひとりで耕して自然とともに道を修めるかと思えば、もってのほかにも自然の道を盗み、耕さず乞食をして貪食し、弁舌たくみに人々に尊敬されようと欲し、同気の者をたぶらかして弟子とし、後には弟子たちに布施を貪らせて自分はそれを貪るために歩行をすることをやめ、高座に上って舌頭をとろかして貪食を重ねた。
これは自然の耕道を盗む最初の誤りである。この第一歩からしてすでに誤っているので、釈迦の一生49年のあいだ説法したうち、穀精は人間であり、耕きない者は罪人であると説いたことはだだの一度もないのである。
人間は穀物を食わなければ死んでしまうのであるから、説法はおろか、仏も悟りもあったものではない。釈迦をはじめとして、だれでも穀物を食わずに一言でも口にできるものがいるであろうか。

釈迦は、盗人である「王」を捨てたが、その代わりに修行と説法というもう一つの「貪食の道」に入ってしまったと批判します。

◇武士階層への批判

<四民を立つるの失(あやま)り>『士があるから乱世がはじまる』
四民とは士・農・工・商である。これを制したのは聖人の大罪であり、大失敗である。士とは武士である。君の下に武士の身分を立てて庶民の直耕の所産たる穀物をむさぼり、もしも気が強くて違背に及ぶ者があったときには、武士が大勢でこれを取りひしぐことができるようにこれを制したのである。
また聖人の命令に背き、徒党をなして敵対する者には、この武士をもって討伐する。この用途も兼ね備えている。これは聖人がもともと自然の天下を盗んだものだから、他人からせめられることを恐れてのことである。
果せるかな、伏義(ふくぎ)が君主となって上に立ち、妹の、女媧(じょか)氏にいたって戦がはじまり、天下がおおいに争乱した。それ以来、乱世が絶えることなく続き、万々歳経た後世になってもなお、自然の天下を盗むことがやまないので、兵乱もやまないのである。すべて聖人の罪である。

君主が天下を盗み、その盗みを守るために武士という身分が存在する。君主と武士が存在するから乱世が続いてきたと批判します。

◇農・工・商をどう捉えているか

昌益は残りの身分をどう捉えているでしょうか。

<四民を立つるの失(あやま)り>
『農民は自然の天子である』
農は直耕・直織、食を安んじ、衣を安んずる無欲無乱の自然の天子である。だから、貴くもなければ賤しくもなく、上でも下でもなく、賢くもなければ不肖でもなく、自然宇宙に応じた私のないものである。
『工匠は無用の長物である』
工は工匠、諸種の器財を作ることを生業とするものである。この身分をもうけた聖人は、美しい家や城郭を建てるために、諸器財を自由に入手するために、美しい衣服や美食で華美をつくすため、軍用品のため、いずれも自分を利するためにこれを兼ね用いるのである。
もしも、聖人が世に出ることがなかったら、どんなによかったことだろう。天下万国ともに、人々は直耕し、直接自分で家を建て、直接自分で器物を製作し、無益の奢り・飾りをせずに、乱も患いも知らず、宇宙と生死をともにすることができたであろうに。
『商人は社会の敵である』/『金銀を通用させた誤り』
商人とは諸物を売買するやからである。諸物の売買は天下の通用としたこともまた、これを制度として立てた聖人の大罪である。
(この後に、火・木・水・土・金の考察があり、『金』だけは、自然の土中に隠れているものだという。)
しかるに聖人は山中の金を掘り出し、金・銀・銭を鋳て、これを天下に通用させた。これ以来、世界万国で金ある所を穿ち掘り、金を宝とするようになったのである。
この金を用いて諸物にかえ、自分の欲する物を足らせる。そこで上下の万人が金さえ得れば身の望み、歓楽を達しやすいものだから、一命に代えてもと金を惜しむ世の中になる。
人性にそなわっていたはずの自然真の清浄の神、正真の心も金銭の欲望のためにかき乱され、真性を失う迷妄の世になってしまったのである。

昌益は、直耕し、衣を織り、器物を製作し、自分で家を建てる『自給自足』を人間の真性としますので、工匠も商人(貨幣)も、聖人が作り出した不要のものであると批判します。

3.直耕こそ理想、原始生産体(農業生産体)への回帰思想

安藤昌益の思想に共鳴する門人達が、八戸を中心に少数だが存在した。そして、昌益と門人達の間で、世直しについての実践方法が論じられる。『安藤昌益の世界』(石渡博明著)からみてみます。

◇世直しを導く「自然真営道」

昌益は、歴史の進展は「自然世−法世−自然世」にあるとして、来るべき未来社会・理想社会の実現を心底願っていた。そして、また、それは実現できるとも考えていた。
社会が自然の産物ではなく、人間が作りだしたものである以上、人間の手で作り変えられないわけがないからである。昌益はそれを家屋の建て替え、立て直しになぞらえ、自らの著作「自然真営道」を建て替えのための不可欠の道具として位置付けている。

昌益は、聖人・釈迦の出現以来、世々の聖人・賢人や諸宗派の開祖らが作り上げ、膨大な書物・学問で正当化された眼前の社会を歪んだ家と見立て、そうした歪んだ家を毀し、改め作るには、どうしても新しい楔(くさび:家を建てる際の要)、新しいものの見方・考え方、すなわち「自然真営道」を人々の心の内に、まずは打ち込まなければならないと考えた。

◇実践方針「契(かな)う論」

「契(かな)う論」とは、「私法盗乱の世にありながら自然活真の世を契う論」といい、昌益一門による全国集会での討議の産物、過渡期の方針である。

門人達の質問に対して、「上に立ってはならない、統治しようなどとしてはいけない、政治にかかわってはいけない、自分を、人間性を見失うことになるからと」繰り返し説いていた昌益が、門人達の再三の問いに対して、政治参加について口を開き、世直しの具体的方針が提起されたのである。

上に立つものは、本来、公共のものである土地を私物化しているわけだから「領田を決め」、つまり領有地を制限し、余った土地を解放する。そして、解放した土地を、遊民をはじめとして、下々にあって耕作地がないために直耕に携わることのできなかった人々に「相応の田畑を与え」、その上で双方ともに直耕させようというのである。
どのようにして直耕に携わせるのか。「これを諭して」である。僧侶・修験・社人・歴家・天文家などの口舌の徒に対して、「これを諭して耕さしむ」といった文言が繰り返される。いわば、説得によってである。

全員の直耕
では、「契(かな)う論」で描かれた世界、昌益一門にとっての準理想社会とは、いかなるものであっただろうか。
残念ながら、理想社会でないことの最大の問題として「上下」の階級は依然として存在する。しかし、上にあった者も土地の所有は一族の生活を賄うだけに限られ、自ら耕作に携わった収穫で一族の生活を立てていかなければならない。年貢(税)の徴収は禁じられ、家臣の数も制限され、領有地の多くは手放さなければならない。住居も帝城・宮殿というような屋敷は無用、町家並みの造りに限られる。ただし、衣服は下々と違って木綿でもよしとされる。山海の美味・珍味、贅沢な遊芸、妾を囲うことは禁止される。
武士も、職人も、商人も、遊民・学者・宗教家も、解放された土地が与えられ、耕作に携わる。なお、職人は贅沢品の製作は禁じられるが、生活用品の製作は当然のこととして認められる。人の生命をあずかる医者は、「互性の妙道を知る」ことが前提とされ、医者の家族もまた耕作に携わる者とされる。
わずか一行ではあるが、「盲人」についての言及もある。盲人に対しても、単に一族が養育するだけでなく、盲人自身に石臼を挽かせて直耕の一端を担わせ、直耕に参画させることで自然界の一員であることを実感させよというのである。

万人の「直耕の世」の在り方を、具体的にイメージしている。また、都市を離れた住民のために、「山里、平里・海里の建設」の方策も議論されている。

そして、上に立つ者の唯一な政事は、人々が直耕に励んでいるか、直耕を怠る者がないかの監視に限られ、地域の秩序は村人の自治「邑政(ゆうせい)」に委ねられる。
こうした社会が何年も続いていけば、やがては自ずと「自然活真の世」に帰着するであろうというのが、昌益一門の世直し案=「私法盗乱の世にありながら自然活真の世を契(かな)う論」の中身である。

古来の人間は、万人が直耕(生産)するものであり、法世(儒教や仏教によって統治される世)、貪食の徒、寄生者がはびこる世から、再度、直耕の世へ戻る定めにあると看破します。すべてが直耕(生産)に従事する共同体(邑・むら)を理想とし、そこに向かう方針を提起しています。

私権の圧力が衰弱し、支配思想が瓦解しようとしている現代こそ、安藤昌益の自然観、社会観から汲み取るものが沢山あると思います。

  
   八戸の安藤昌益資料館1階展示室

前回扱った二宮尊徳と今回の安藤昌益をみることで、江戸期の日本人の思惟と思想の高さを再認識できると思います。

江戸期の二人の思想家でもって、シリーズの個別思想家編を終えます。

次回は、このシリーズの総集編です。どんなまとめになるか楽しみにしていて下さい。

List    投稿者 leonrosa | 2012-05-02 | Posted in 07.新・世界秩序とは?No Comments » 

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